TOKYO PERFECT WORLD (GINZA)
Naho Ishii / 2016
紙にコラージュ,インクphoto collage and ink on paper

 

銀座というのは、前時代を愛でる懐古的な街ではないか。
文化の薫りを感じさせながらも、その薫りを追って歩いてもたどり着くのは歌舞伎座くらい。時代の残り香だけが辺りに充満し、その香りは美しいものの、正体を突き止められないままに夜になってしまうーーー。

 

夜になるにつれ、銀座の色香は濃くなってゆく。
碁盤の目を縫うように、お着物を身にまとった上品な女性がしゃなりしゃなりと街をゆき、夕刻の喫茶店では、高貴な夜の蝶たちが営業メールに勤しんでいる。私はそんな光景が好きだ。その光景に、銀座の文化の薫りを感じる。
私は高級料亭や高級クラブには入れないけれど、夕刻頃の喫茶店でならば、まるでうつくしい蝶の翅の標本を眺めるみたいにして、うつくしいお洋服やうつくしい所作、うつくしいお顔をじっくりと見ることができる。

この作品の舞台となっている珈琲店でも、
夕方になると夜の蝶の翅が仕事の準備に勤しんで、私はそれをうつくしいと思う。

 

 

夜の街として六本木や新宿が勢力を強めているが、銀座には「風格の違う」夜の街としての揺るぎないイメージがある。しかしバブル期には3000件もあった高級クラブが、今では半分以下に激減しているのだという。
この光景も何十年後まで見られるのかな…。

 

 

 

銀座は時代の残り香を感じさせながらも、なかなかその実体を見つけられない街だと言いましたが、なぜそのように感じるのか?その沿革を知るために、銀座史を軽く振り返りたいと思います。

長くて読むのが面倒だという方は、
下方に流れを短くまとめてあるので、そこまで飛ばしてくださいね!

 


 

江戸時代

江戸時代より前、現在の丸の内から日比谷にかけては「日比谷入江」と呼ばれる海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂が形成されていました。その先端が現在の銀座にあたります。

1603年に江戸幕府が樹立すると、天下普請が行われ、日比谷の埋め立てと京橋の整備が進められました。銀座は埋立地だったのですね。

江戸時代の銀座は商人の町ではなく、職人の町としての側面が強かったそうです。

 

 

明治時代

明治維新後の1869年と1872年、銀座に大火が起こります。特に1872年の銀座大火は銀座一円が焼失した大規模なもので、それを機に大規模な区画整理と銀座煉瓦街の建設が行われました。
この政策は、火事の多かった東京を『不燃都市化』すること、また秋に開業予定だった新橋駅、当時の東日本経済の中心地であった日本橋、その間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったそうです。
煉瓦街は1877年に建設が完了しました。

 

こうして新しく出発した銀座には2つの特色がありました。

1. 実用品の小売を中心とした街であったこと。
2. 顧客は主に山の手に住む上流階級、中産階級、ホワイトカラーの人々だったこと。

当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野でしたが、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていきました。

 

Tokyo-edohakub-ginza  Ginza_in_1880s
Wikipediaより/左:銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)/右:1880年代の銀座)

 

 

大正・昭和

1923年9月1日に発生した関東大震災で、銀座は町の大半を焼失。銀座も、せっかく造った煉瓦家屋のほとんどを取り壊すことになりました。日本は持病の震災に、昔からずっとずっと悩まされてきたのですね。

震災後は、東京駅の開業による丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店などが次々と登場。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、銀座を散策する「銀ブラ」が全盛を極めます。

 

Ginza_after_Great_Kanto_earthquake  Ginza_circa_1920

Wikipediaより/左:関東大震災直後の銀座/右:1920年頃の銀座)

 

Ginza_in_1933Wikipediaより/1933年の銀座)

 

…しかし、銀座が全盛を極めた頃、第二次世界大戦が勃発。
戦局の悪化に伴い1940年には贅沢品の製造販売禁止令、電力制限によるネオンサインが消滅。1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けました。

戦争末期の1945年1月27日、銀座は初めて空襲を受けます。
その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は壊滅的な被害を受ける事となります。

第二次世界大戦が終わると、多くの商業施設が連合国軍のPX(アメリカ基地内の売店)として接収されました。松屋や和光も「TOKYO PX」の看板に掛け替えられ、1952年頃まで収用されます。
その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められます。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り、賑わいを取り戻していきました。

しかし、そんな順風満帆、文化の象徴であり続けた銀座の街に、暗い影が忍び寄りつつありました。

 

明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層でしたが、関東大震災以降、山手の住宅街は、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていきます。電鉄会社は、それぞれの都心側ターミナル駅の繁華街建設を進めており、渋谷、新宿、池袋に代表される副都心の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのです。

 

Ginza_circa_1960Wikipediaより/1960年頃の銀座)

 

山手線よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつありました。
1964年のみゆき族、1971年のマクドナルド1号店の開店、1970年の歩行者天国の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を「渋谷」や「原宿」に、総合的な筆頭繁華街としての地位は「新宿」に奪われることになっていきます。

 

平成

1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心再開発のブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになります。ヨーロッパの高級ブランドも銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が軒を連ねるようになりました。

銀座の再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、少しずつ銀座に呼び戻すことにもなりました。彼らによって『総合的繁華街』としての雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況による小売業態の変化もあって、高級なイメージとは程遠いドラッグストアや飲食チェーンなども開業するようになります。2010年代になると中国人観光客による爆買が目立つようになり、戦前や高度経済成長期のような『独特の高級繁華街』としての雰囲気は、随分薄くなってきました。

 


 

【まとめ】

銀座は海の近くの入江で、江戸幕府の樹立によってつくられた埋立地である。その頃は職人の街だった。

《明治維新後に大火が起きる》

復興の際に煉瓦造りにすることで「不燃都市化」が計画された。経済の中心地・日本橋の近くであるため、銀座を「文明開化の象徴都市」にしたかった。その結果、実用品の小売店を中心とした、山手の上流階級を顧客とする街になった。

《関東大震災》

復興後、東京駅の開業。百貨店や劇場、喫茶店などが次々と登場。アール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)が町を闊歩し、銀座を散策する「銀ブラ」全盛期。

《第二次世界大戦》

銀座復興祭が行われ、銀座は賑わいを取り戻していく。

しかし電鉄会社が主要ターミナル駅の繁華街建設を進めたことで、若者の中心地は渋谷や池袋に、筆頭繁華街としての地位は新宿に奪われる。

90年代後半に都心再開発のブーム。都心としての銀座が再び脚光を浴び、海外ブランド店も増える。
国内の長期不況による影響で、小売店が減り、ドラックストアや飲食チェーンなどが増え、昔の「独特の超高級街」の雰囲気を失ってゆく。

 


 

バブル崩壊の1991年に生まれた私にとって、銀座は「誇らしかったあの頃」に未練を持ちながらも、変わらざるをえなかった都市の姿としの印象がぬぐえません。
そして「誇らしかったあの頃」のイメージを、私は夜の街のクラブ文化に見出します。

 

もしも願いが叶うならーーー、
銀座文化の最盛期、「モダンガール」や「モダンボーイ」がアール・デコ調の20年代ファッションを身にまとい、上品な色恋に花を咲かせた100年前へ、タイムマシンに乗って遊びに行ってみたい。

この街を眺めながら私は、そんな風に時代の残り香に想いを馳せます。

 

 

 

 

石井七歩

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